野村獣医科Vセンター
院長 野村潤一郎
院長の野村潤一郎と申します。
写真を見て「ああこの人か、テレビや雑誌で見たことがある」
とお思いの方もたくさんいらっしゃることと思います。
取り上げられるメディアによって
さまざまな脚色がなされますからその印象も様々でしょうね。
ひとつの食材も調理の方法によって
いろいろな料理になるわけですから。
ここでは私の素の味を知っていただくために本人による
自己紹介をさせていただきます。
私は1961年に東京の新宿で生まれ、
幼少期を過ごしました。
おそらくは当時流行った円谷プロの怪獣番組や
木馬座のケロヨンの影響もあったのでしょうが
離乳してまもなく人間以外の生命体に強く関心を持つようになり、
二本足で歩ける頃には子供にとって
最も身近な生き物である昆虫に夢中になりました。
そうこうするうちに字が読めない幼児の分際で
裏の中村のおじさんから借りた大人向けの昆虫図鑑を
食い入るように眺めるようになりました。
おしゃぶりを咥えながら。
その後、同じく東京の下町に引っ越して少年期を過ごしました。
両親は夫婦共働きでもあり、
けっして裕福な家庭ではありませんでしたが
親の愛情、町の人たちの“人情”に支えられ
人間臭さに満ち溢れた少年期を過ごしました。
相変わらず生き物に対する興味は
すさまじいものがありましたから、
ほとんどの時間を動物飼育に費やしましたが
特に小学校低学年の時に
通学路で倒れていた子猫を発見し拾い育て、
動物病院に通院した甲斐なく死んでしまった思い出や
家出までして親を説得し、
やっと飼う許可を得た雑種犬のリリーとの生活は
現在の私の生き方の基礎になりました。
中学生になってもやはり私は動物好きのままでした。
中学を出たら一刻も早く世の中に出て働きたかったので
将来の進路に悩みました。
絶対条件は
「いつも動物と一緒にいることができる仕事」でした。
まあ、中一の考えることですから
獣医師になろうと答えを出すまでたいして
時間はかからなかったと記憶しています。
だって中一ですからね、気楽なものです。
しかし獣医師になるためには沢山の関門があることを知って驚きました。
大学に合格しなければならないこと。
大学に六年も通わなければならないこと。
国家試験に合格しなければならないこと。
卒業後は徒弟制度の見習いで
シゴかれなければならないこと。
開業するにはお金がかかること。
開業しても患者が来なければ
借金苦で首を吊る羽目になること。
当時の私はてっきり、
中学を出たら高校に行かずどこかの先生の下で
しばらく「でっち」をすればいいものと思っていましたから
たいそう焦りました。
何故ならそれまで動物の世話が忙しくて
勉強なんかちっともしていませんでしたから。
かくして猛勉強が始まりました。
すぐにクラスで一番になりました。
その勢いで大学に入り卒業。
やっと社会に出られました。
息をつく暇もなく厳しい先生の病院に徒弟入門。
手取り八万円の給料で頑張りました。
その後、開業を考えたものの無一文に近かった私は
リヤカーを引く“屋台の獣医”になることを思いつきましたが
法的に適いませんでした。
そこで開業のために国民金融公庫に
融資してもらおうと考えました。
もちろん担保も何も持っていませんでしたから
担当者に土下座して何とか資金800万円ぽっちを借り、
わずか十坪のガレージを借りて病院をつくりました。
上手くいかなかった場合は夜逃げ覚悟の決断でした。
ですから全ての什器にはキャスターを付けていました。
敷金、礼金、前家賃、改装費でほとんど資金は尽きてしまい
最低限の商売道具しかない手作り感満載の仕事場でのスタートでしたが
嬉しかったですよ。
どんなことでも仕事はつらいものですが
自分の意志で始めたことですから
世の中の役に立つように頑張らないといけません。
小さな小さな病院でしたから名前も謙遜して
「野村獣医科医院」としました。
やがて評判を聞きつけて患者さんが
バンバンやって来るようになりました。
働いて働いて働きまくりました。
結婚式無し、新婚旅行無し、子作り無し、
休日無し、飲酒無し、食事は一日一回五分以内、
平均睡眠時間三時間。
そんな暮らしが十五年以上続きました。
この期間の記憶はほとんどありません。
それだけ真剣に熱中していたわけです。
もちろん今でもこのポリシーは守っています。
その後、患者さんが「病院が狭い」というので
その声を受けて病院を大きくしました。
名前も「野村獣医科Vセンター」になりました。
患者さんが「最新機械が欲しい」と言うので
最新の医療器械をそろえました。
患者さんが「うちの犬を助けて欲しい」と言えば
何とかしました。
大変に難しい手術を成功させた際に
体重が四キロ減ったこともあります。
何度も何度も倒れました。
なにしろ患者さんは必死ですから
こちらも期待に応えるのに“決死”でした。
多い時は五分に一人の来院患者がありました。
同様に出版社の人が来て
「本を書いて欲しい」と言われれば書きましたし
テレビ局の人が「道化をやれ」と言えば道化に徹しました。
もちろん「普通にやれ」と言われれば普通にやりましたが。
患者さんたちの要望は
さらに高度医療の領域にまで及ぶようになりました。
大型の医療器械を設置するのに手狭になったので
屋内駐車場まであるさらに大きな病院を建てました。
言われたことを何でもやるのかと問われれば
もちろんイエスです。
私は皆さんに必要とされているからこそ
自身の存在を許されていると思っています。
お師匠さんのところで働いていた時も
「犬みたいだ」と言われましたが
私は「犬」と呼ばれてむしろかなり嬉しかったですね。
大学院に入ったころ、先にお話しした雑種犬のリリーが亡くなり、
自分でアルバイトして手に入れた子がドーベルマンのリーラ号でしたが、
その仁、義、礼、智、忠、信、孝,悌に満ちたイヌ族の美徳に感激し、
尊敬の念すら抱いていましたから
私にとって「犬!」は最高の賞賛です。
ちなみにその後も同じ犬種を選び、
ビオラ号、イリス号と続きました。
ただし当たり前のことですが
正義に反することは一切応じません。
ちなみに正義とは
“生き物が生まれながらに持っている良心”のことです。
というわけで、はっと気が付くと
今の巨大な野村獣医科Vセンターになっていました。
皆さんのリクエストに応え続けて
四半世紀以上の年月が過ぎたんですね。
ここは耐震、耐火、耐洪水、ハイテク満載の
皆さんの動物たちのための砦です。
患者さんたちが動物たちを
「家族なんです」「子供なんです」とおっしゃるので
「それはそうでしょう!」と思った私が
今までの人生をすべてなげうった結果なのです。
尚、四代目のドーベルマンはオスカー号と申します。
可愛くて可愛くて本当に可愛い。
私はオスカー号と共にこれからも
皆様の最愛の「子供たち」を守るため
皆様に仕える頼りがいのある番犬のままで
生きていこうと思っています。
とりとめのない話で失礼いたしました。
これにて院長挨拶にかえさせていただきます。
野村獣医科Vセンター
これからもご愛顧くださいませ。